「自己責任」と「家族の個人化」がお墓観にあたえた影響

地域差はありますが、新規墓石の建墓数は減少し、墓じまい(改葬)の数は増加傾向にあります。

この要因としてあげられるのは、

  • 少子高齢化で墓の継承者不在
  • 家族の変容(核家族化、非婚化)
  • 地方の過疎化

の三点です。

墓じまい(改葬)については、ここしばらくは増加傾向にありますが、いずれ一定数(全体の約3割)に落ち着くのではないかとの見方もあります。

❝お墓の所有者の悩みで「継承者がいない」と回答した方の割合を調べたところ、改葬は4.4%と全体と比較して大きな差がないものの、「お墓の撤去」の割合は30.9%となり、継承者に関する悩みを抱えていない人と比較して検討する方が大幅に増える結果となった。

全国石製品協同組合のアンケート調査「お墓の悩み事」(お墓の所有者への質問)より抜粋 

❝近年叫ばれている墓じまいですが、興味を持つ人は3割程度でした。お墓の移動の可能性がある人が約3割であることを考えると、ほぼ符号します。❞

「お寺の未来」葬儀・お墓に関する生活者調査より - Vol.2 お墓編より抜粋

しかし、新たにお墓を建てる人の数は、永代供養墓、納骨堂、樹木葬、散骨など、お墓の形式が多様化していることもあり、やはり減少傾向にあるでしょう。

お墓の多様化と墓石建立数の減少は、先にあげた三つの共通要因から起こっています。

今回は、そのなかの「家族の変容」と、その根底にある思想が、私たちのお墓観にどのような影響をあたえたかについて考察していきます。

家族の個人化とお墓観

近代になると、「家」から「小家族」(「直系家族」から「夫婦制家族」)へ、さらに「おひとりさま」へと、その単位がどんどん小さくなり、個人に向かっています。

かつて「家族」は、個人にとっては、選択できず、解消困難な領域として存在していましたが、現代は「家族」も選択可能な存在として考えられるようになっています。そして、それは「家族の個人化」というカタチで浸透してきています。

家族の個人化は、お墓についての行動でも顕著です。

これまでお墓は、誰かが亡くなれば建てるもの、もしくは相続するものでしたが、「家族の枠内での個人化」がすすむと、墓を建てるか建てないか、相続するかしないか(墓をしまうこともふくめ)を、家族内で選択する自由が生まれました。

さらに、「わたしは配偶者とは別の墓に」や「わたしは散骨」など、夫婦間でも個人の埋葬先がそれぞれ選択可能になっています。

もともとは、一人一基の個人墓という形態でしたが、その時代の個人墓は、「家」という共同体が守っていたので、現代のお墓観のような選択可能性という意味の自由さはなく、墓も家という共同体の規範として存在していました。

家族の個人化には、もうひとつ「本質的な個人化」もあり、実はこれが家族の変容の一番のポイントです。それは、「家族という形式を選択できない(しない)リスク」や(親や子から)「捨てられる」ことを意味し、たとえ社会が経済的にはその人たちを支援できたとしても、家族に代わる存在をあてがえることができない問題です。
(以上、山田昌弘『家族の個人化』参照)

このように家族が個人化していく社会で強まってきた意識があります。それは、「自己責任論」です。

自己責任はいつ生まれた?

現代ビジネスオンラインの記事によると、「自助」「自己責任」が好きな日本人という見出しで、日本人の特徴についてこう書かれています。

日本人は「公助」による人助けについても、他国に比べれば冷淡な態度をとる人が多い。ISSP(International Social Survey Programme)が35カ国を対象に2016年に実施した「政府の役割」調査によると、日本は他国に比べると、社会保障の充実を「政府の責任」だと考える者の割合が少ないことが明らかとなっている。
たとえば、「失業者がそれなりの生活水準を維持できるようにすること」が「政府の責任」だと考える者の割合は、日本では53%であり、他国に比べて低水準である。
(中略)
日本は、「共助」も「公助」も控えめで良い、と考える世界でも稀な国である。自分は寄付・ボランティア(共助)も税金(公助)も負担したくない、失業や貧困などで困っている人は自分の力でなんとかすべきだ。このように、「自助」と自己責任を強調するのが日本人の特徴と言える。

日本人は、実は「助け合い」が嫌いだった…国際比較で見る驚きの事実

自己責任の「自己」には、家族もふくまれているでしょう。

「家族の問題は家族で」と考えるのが日本人の特徴で、公助のための負担には渋い顔をするのが一般的です。

「自己責任論」は、ネット上でも炎上というカタチで、成功者といわれる強者と非正規労働者、(社会福祉従事者をふくめた)低賃金労働者側との対立をうんでいます。

しかし、この思想は現代の特徴的な考えというわけではなく、「周囲に迷惑をかけてはいけない」ことを美徳とする日本の社会通念でもあり、少なくとも明治時代には確立していた考え方だと思われます。

明治時代に使われていた修身教科書では「自立自営」の言葉が記され、明治民法でも国家政策は国民の自立自営の障害となるものと否定されていた経緯があります。(田邊(蓑輪)明子『近代日本における「家」制度の成立とその変容』より引用)

社会学的には「近代化は個人主義化」だと考えますが、家制度も家父長の権利を優先するという意味では、現代よりも明治時代のほうがより個人主義的でした。

現代は家父長の個人的な権利がなくなり、家族規範が弱くなって家族が個人化していくなか、家族間でも「迷惑をかけてはいけない」という自己責任論が出るようになり、それがお墓観に影響をあたえるようになったといえます。

また「おひとりさま」が、社会的にも決して少数派とはいえなくなる状況(家族観の変容と長寿化)では、自己責任で考えていく「終活」に目がいくのも当然の帰結でしょう。

自己責任と家族の個人化の行き着く先

このように「家族の変容」は、そのまま「お墓の変容」と言いかえることができます。

それは「(従来の個人墓とは違う意味での)お墓の個人化」であり、近代化において家族観の変化が必然的であるよう、墓のそれも必然的だと言わざるを得ません。

しかし、家族の個人化について、このような考察ものこります。

家族の個人化は、それが、家族の枠内の個人化にしろ、本質的な個人化にしろ、(略)肯定的に受け止められてきた。個人化は、「規範による抑圧」からの解放を意味していたからだ。しかし、規範から解放された結果は、能力のある人の(相手や家族形態)の選択の自由をもたらすが、多くの人にとっては、「自分の望みどおりの家族がもてない体験」や「選ばれない体験」「捨てられる体験」をもたらす。その結果、不自由だが確実で安定的な関係が、この社会の中から消失していく(Reich 2000)

(山田昌弘『家族の個人化』より引用)

ペットの家族化は、ペットが、人間のように裏切らない(個人化され得ない)存在を求めるエネルギーのはけ口となっているとの指摘もあります。

自分で選択できる自由を手に入れる反面、人間関係の基盤である家族でさえも「不安定」となった場合、他者との関係性が利己的で殺伐としたものになると懸念されます。それは、そのまま「お墓の個人化」の問題として、「漂流する遺骨」といったカタチで見られるのです。

おそらく、家族の意味をそれぞれが考え、持つ時代になることは避けられず、それにともなう困難が生じるのは仕方がないのでしょう。

お墓についても同様で、それぞれがその意義や価値を持つ時代が到来しています。

そのとき、その一助になればと思い、つくったのが「おはかの手帖」です。

お墓も家族も、自分にとって便利で快適な道具にはなり得ないように、ときに、うざく、感情を揺さぶる存在として、せめぎ合いのはざまにいるのが、「いま」という時代なのかもしれません。しかし、それに代わる確固とした存在は、いまだかつて見つかっていないのではないでしょうか。

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